sadaijin_nanigashiの日記

虚無からの投壜通信

日々のあれやこれやをいろいろと。

久しぶりにブログを再開して思うこと

というわけでブログを再開して、大体一週間弱になろうとしている。

そこで気づかされてしまうのは、一定の長さの文章を生産する能力が、以前と比べて大きく落ちているのではないか、あるいはその種の能力が鈍麻しているのではないかということだ。率直に言ってこれはまずい。

以前であれば、ブログ関連では、1500字程度の文章はそれほど苦もなく綴ることができたように記憶している。論理構造の設定や取り上げるべき話題の選択など、更新頻度はそれほど高くはなかったが一旦書き出せば大体の書きたいことはそれこそ頭の中から引き出すように文字にすることができたと記憶している。

ところがTwitterFacebookなどの短いセンテンスでのやりとりが多いメディアでのここ数年続いた結果、再びブログに戻ってきてみると長い文章を書くのが予想以上に大変になっていることに気づかされる。少なくともリハビリが必要な程度には生産能力が落ちているようだ。

もちろん、長い文章をダラダラと書けることそれ自体が賞賛に値するわけではない。一定の帰結を前提としたアジテーション目的の文章や論点先取の錯誤の前提に立つ陰謀史観丸出しの文章であれば、取り上げるべき大罪を入れ替えるだけでほぼ自動的にある程度の文章のボリュームは達成することができる。それは懐かしのジョークソフト「難解バカボン」とさして変わるところはない。

だが、ここで私が問題としたいのは、言語によって論理的かつ筋道を立てた至高という経験あるいは行為が、ここ数年間で日常的なものではなくなってしまったのではないかという危機感だ。感覚や主観によって得られたものを言語化し、外部化することで再度検討してみる行為は、自分の考え方や主張の内容を反省する上で(も)欠かせないものだし、実際それ自体として文章を書くという行為は回帰的に自分の思考の構造をトレーニングするという意味もある。

従って、ブログの再開に当たってこのような苦労を感じるようになったということは、恐らく私自身の思考力そのものが何らかの形で、少なくとも言語という観点からは衰えているのではないかと感じられる。それが恐ろしい。

けれども、要因をただSNSでのコミュニケーションなるものだけに求めるのは、もしかすると正しくないのかもしれない。ここ数年間患っている鬱病がもたらした悪影響は、日常的に思考速度の低下や集中力の悪化などという形で実感するところは多いし、それらが認識と文章の構築に影響を及ぼしている点も少なくないだろう。また、SNRISSRIを服用しているときに感じる(そして今も感じることの多い)あの世界の輪郭が曖昧模糊とすることによる安心感は、世界への違和感を起点とする形而上的思弁を間違いなく阻害するということも認めなければならない。なぜなら、全てが類縁的あるいは相似的な世界では、認識を以て世界に自己を屹立させる思考の必要性は限りなく低いからだ。そういう意味では、これらの向精神薬は確かに病気の治療あるいは症状の改善には役立ちはするが、より険しい思考の峰に到るためには問題があるのだと思う。

なにはともあれ、言語によって認識を律する訓練を、また行わなければいけない時が来たように思う。