sadaijin_nanigashiの日記

虚無からの投壜通信

日々のあれやこれやをいろいろと。

シン・エヴァンゲリオン劇場版観てきたわけですけども

シン・エヴァンゲリオン劇場版を先日観てきたわけです。パンフ売り切れでしたんでネットで注文してそろそろ届く予定です。細かい内容のおさらいはこのパンフと、恐らく半年後くらいに発売されるBDかな。BDは多分序破Qも最終ディレクターズカット版みたいな感じでリファインされてBOXで発売されると読んでますので、それを狙うのも一つの手かなとは思います。

いわゆる「新劇」については『破』あたりから一応劇場で観てるし、もちろんその前の旧劇やTV版もほぼリアルタイムで追ってきた側のおっさんである自分な訳ですが、ああ、ようやく終わったし、こりゃ続編が作られることはもうないだろうなあという感想を素直に持ちました。最初のTV版から起算するとほぼ四半世紀ですよ。実質的に続編とか存在しない状態でよくまあこんな長いこと一つのコンテンツが続いたなあと思います。旧劇と新劇との間にはコミック版の完結とかもありましたんで、一応話題自体は途切れなかったわけですが、例えば続編がガシガシ作られて作品世界が拡大していった機動戦士ガンダム宇宙戦艦ヤマトなんかと比べると全然違いますね。

で、この四半世紀を振り返りつつ旧劇の人類補完計画発動場面で流れていた「Komm, süsser Tod 」をヘロヘロと聴いているんですが、やっぱいい曲ですね、この曲。イントロ部分がプロコル・ハルムの「青い影」、コード進行はパッヘルベルのカノン(いわゆるカノンコード)を中心にして組んであり、後半はビートルズの「ヘイ・ジュード」を混ぜ込むというコラージュが高い水準で行なわれているという点で鷺巣詩郎ってやっぱ天才だよと感嘆する次第です。

で、思い出すのは、旧劇含めた旧作は主人公の猛烈な自己肯定感の低さと、そのようなゆがみを生むなら他者なんか要らねえから人類滅べ、という社会に対する猛烈な呪詛が作品の後半に到るとガンガン加速していったという思い出です。実際日本の若者の自己肯定感は他国と比較しても非常に低い水準にあることは各種調査からも明らかなのですが(例えばhttps://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h26gaiyou/tokushu.htmlを参照のこと)、これは他者を肯定し受容することが希薄だという日本の文化的・社会的構造に由来すると言われており、旧作はこれに加えてバブルは崩壊するしオウム真理教はテロをやるし山一証券は倒産するし阪神淡路大震災は起こるしというどこにも明るい材料がないという当時の状況を背景に作られた訳です。そういうコンテキストと呼応する形で、他者と世界の破棄を願う意識というのはこの作品を受容した人々にとっては実際リアリティのあるものだったし、それこそシンクロするものだったと考えられるのです。そういう意味で旧作は特に「ロスジェネ」と言われる人々が尊厳を要求する絶叫にも似た話だったし、世界が滅ぶ場面で流れる「Komm, süsser Tod 」は変ロ長調で書かれているにもかかわらず歌詞の内容は「自分もダメ人間だし、みんな死んで世界なんか滅べ」というドス黒いものであり、これは社会の表層的事象が「明るく楽しい社会に向かおうぜ」というポジティブシンキングなメッセージを思考ゼロで繰り返しているのにその実社会が個人にもたらす絶望的状況は何も解決しないというその当時の現実と見事に呼応していたわけです。1994年にリリースされた電気グルーヴのヒット曲「N.O.」でも「話す言葉はとってもポジティブ 思う脳ミソ ホントはネガティブ」とか罵る歌詞が出てきますが、旧作に呼応した人たちは程度の差こそあれど大体そんな意識を持ってたと言えるのではないでしょうか。

ところが時代は過ぎ、右を向いても左を向いてもネットワークとかコミュニケーションとかそんな感じの言葉が壊れた水道管のように流れてますし、SNSを覗けば「私ってステキでしょ」的日常充実ぶりを自慢するセルフコンテンツが横溢する現状が展開されているのが2000年代も結構すぎた段階での実情です。他者との関わりによって自己肯定感を醸成するような社会的環境は未だこの中世ジャップランドでは希薄なわけですが、その代替手段としてSNSなどでは全ての具体的コンテキストを無視して自己肯定のポストを垂れ流すことで、目も耳もふさいで自己肯定のぬるま湯に浸かることが可能です。脳味噌に一発キメているみたいに自己肯定のコンテンツをまき散らして、「イイネ」を沢山もらえば形式的であるにせよ自己愛の欲求は充足させることができるぜバンザーイということが、比較的手軽な方法として提供されてるのです。おまけにSNSは嫌いな奴に関してはブロックすることができますから、自己愛の充足にとって邪魔になるやつは視野から追放できるし、結果として認識的には抹殺することができます。これって他者の抹殺を願っていた旧作の主人公からすれば実に羨ましいことで、他者を抹殺しつつ自己肯定のお城を築くことがとりあえず可能なのが今日の状況だったりするのです。

多分、新劇、特に最終作はそういう現状に嘔吐を感じつつシナリオをある程度当初のプロットからは変更させつつ作成されたのではないかと私は感じました。即ち、自分を愛するとかそんな話は自己への執着があるが故に生じたある種の虚妄なんだから、そんなものを捨てるためにも、まあゆるく社会の色んな人とつながった方がいいんじゃないの?というのがこの作品が最後にたどり着いた視点だったのではないかなあとも言えるのです。だから主人公が最後にいた場所は外部への接続の象徴である海であったり、(日本では)都市のゲートウェイでもある駅だったのかなと。そして、年を取ることがないという「エヴァの呪い」とは、こういう自己の問題に拘泥する余り外の世界に対しての眼差しを閉ざし、精神的に成熟することのない我々の状況を半分くらい揶揄するような形で形象化したものなのだろうとも考えるのです。

それなりに年を食った私のような人間にとっては、このような帰結となった新劇の最後はは実際腹オチする結末ではあったりします。自己というのは獲得されるものであると同時に、破棄されるべきものだからです。でもそれが分かるには色々と苦労や悲しみや絶望の山脈を越えてくる必要があるわけで、やはり自己肯定感の低さに呻吟しているであろうこの時代の若い人たちには、旧作のような問題提起のアプローチは、似たような問題を抱えて社会への呪詛を抱く人は数多いということを知らしめるという意味において、ある種の救いになるのではないかなあとも今でも少し思います。

というわけで、エヴァが完結した今だからこそ、「Komm, süsser Tod 」を聴きながら、人類なんか滅んじまえこの畜生!と絶叫するのも、たまにはいいんじゃないかなと、厨二病をこじらせた中年で独身のおっさんである私は思ったりしました。