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sadaijin_nanigashiの日記

虚無からの投壜通信

日々のあれやこれやをいろいろと。

Adios Nonino: さよなら、じいちゃん

雑記

このことをどう書いていいのか、今でも言葉が見つからない。

 

約25年前、高校1年生の時、南仏のとある夫妻の許にホームステイをした。半月少々のことだったが、彼らの温かい受け入れとラテン的な朗らかさが持つ陽気さは、元々は相当に内向的だった私の性格をかなりの部分で変えてくれた。今でも内向的ではないといえば嘘になるが、それでも初めて会う人に外国語でも物怖じせず話しかけるだけの度胸を植え付けてくれたのは、彼らの家庭で過ごした経験のおかげに他ならない。

そしてそれ以来、彼らとは文通を欠かさず、時に応じて起きた様々なことをやりとりしていた。特に留学中からは数年に一度は必ず彼らの許を訪れ、成人してようやく飲むことができるようになったワインや食前酒を酌み交わしながら色々な話をした。夫人の母親はスペイン系で、スペイン内戦を逃れてフランスに移り、フランコに対する敵意から、その後亡くなるまでスペイン語を一言も話さなかったということ。そして旦那さんはベルギー生まれだったがナチスの侵攻に伴い這々の体でパリに逃げてきたはいいがフランスもまたナチスに降伏し、色々と苦労したこと。そして戦後は彼は消防士として活躍し、その時の勲章が棚に飾ってあること。私が共著ながらも本を出したときには、その内容は(日本語で書かれているから)全く分からないにもかかわらず、誰よりもそれを喜び、玄関の飾り棚にはずっとその本が飾ってあったこと。25年の長い関わりの中で、嬉しいこともあれば、悲しいことも、そして白熱した議論を交わしたことも、もちろんあった。

しかし、時間の流れは私の希望とはお構いなしに進んでいく。2014年の秋に彼らに会ったとき、旦那さんの衰えようは誰の目にも明らかだった。かつては素手でビールの王冠を外すだけの腕力の持ち主だった彼が、歩くこともままならない状態だったのだ。その当時で85をとっくに過ぎていたとはいえ、かつての健壮ぶりを知る身としては途轍もなくそれが悲しく、私は帰りの電車の中で人目も憚らずに泣いた。

そして今年の初頭、夫人からもらった年賀状には彼が酸素吸入器をつけた状態で寝たきりとなっており、そう先は長くないと記されていた。それでも元が頑丈な人だから、夏ぐらいまでは持ってくれるのではないかと希望を持っていたのだが、年賀状を受け取った翌週、彼の孫(彼自身とももう25年の付き合いで、会うとスラングまみれの酒を酌み交わす仲である)から、その死を伝える連絡を受けた。そして遺言通り、翌日には荼毘に付すという。私の記憶するところでは彼は散骨希望だったから、遺灰は地中海のあの美しい海原に今頃は還っていることだろう。かつて、彼は「今まで魚を沢山食べてきたから最後は魚のえさにならないとな」と冗談めかして言っていたのだから。

仕事もあり、航空券は通常運賃のため尋常ではない価格のため、しばらくは夫人と故人の想い出を語りに行くことはできない。だから急遽の策として国際ネットワークで花を贈る手配をしたのだが、その間に私が参加しているオーケストラの演奏会が行われた。中プロのチェロ協奏曲のアンコールピースは、ソリスト氏が弾き振りをするピアソラの「アディオス・ノニーノ」であった。

この曲の由来については多くの解説がネット上で読めるので、ここではそれには言及することはしない。ただ、親しき者を喪ったとき、現実の生活がその喪に服す優しさを持ち得ていないことに由来するこの曲の響きは、かつての過ぎ去った愛おしく優しく美しい日々のことを、ピアソラの個人的な思いを超えて私の悲しみと共鳴するように私は感じた。ピアソラが父の想い出を、その物理的な遠さ故の苦しみと共に奏でるとき、それは少なくとも私個人の極個人的な南仏の彼に対する想い出と照応しあうのだ。

この曲を練習しながら、私は何度も嗚咽に自己のコントロールを失いかけた。だが、私的な悲しみを普遍的な人間の日々の悲しみと追憶に昇華させたピアソラの凄さは、それが鳴り響くことで恐らくはそのような経験を持つ全ての人の心に響く点にある。それこそがこの曲を演奏することで伝えるべき事なのだと、当日は主観に任せてアンサンブルを壊すのではなく、伝えることに徹し、ホールの中空に浮かぶ、彼の思い出を瞼に感じつつ演奏をした。

そして帰宅。酒がいい具合に回っていたのだろう。一服し、椅子に掛けて、再度、今度は自分のために、Adios Noninoを聴いた。暗い部屋で、涙が滂沱と流れるのを感じた。それは全て過ぎ去った、かつての「あの」ともはや形容するしかできない時代の、全ての想い出に対する、私なりのお別れだったのだと思う。

 

さよなら、じいちゃん。よく休んでください。
あの快活な笑顔、絶対に忘れません。

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