sadaijin_nanigashiの日記

虚無からの投壜通信

日々のあれやこれやをいろいろと。

高市早苗のビックリするほどの文化に対する無知

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さて、記事によると、

「テロリスト集団が発信する思想に賛同してしまって、テロへの参加を呼び掛ける番組を流し続けた場合には、放送法第4条の『公安及び善良な風俗を害しないこと』に抵触する可能性がある」

だそうだが、世の中でよく知られた各種文学作品には実質的なテロ集団の話を扱った物が少なくないのはよく知られているところであろう。新撰組だって今日的な観点からすれば明らかなテロリスト集団だし、グラズノフの有名な交響詩「ステンカ・ラージン」は大規模な反政府蜂起という点では間違いなくテロリストだし、中国三大奇書のひとつ『水滸伝』だってテロリスト集団が山にこもって抵抗を続けた話だ。ガノタには有名なデラーズ紛争(デラーズ・フリートが地球にコロニー落としをした話)だってやったことははっきり言ってテロな上、『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』ではデラーズフリート側に同情的なストーリーテリングがなされている。右翼の皆さんが大好きな三島由紀夫の最後の作品『豊穣の海』の第2部に出てくる飯沼勲は思想もやってることも厨二病こじらせ型のテロリストである。

更に言えば、赤穂浪士忠臣蔵)の話も法を無視して私怨の報復を行ったテロ行為である。そしてまさにそのゆえに江戸時代は赤穂事件は直接取り上げることが御法度だったわけで、だからこそ『仮名手本忠臣蔵』という翻案物が書かれ、大人気になったのだ。従って、高市の論法に従えば忠臣蔵はどっからどう見てもアウトで、法治国家の基本を為す罪刑法定主義を真っ向から否定する話である。だから、高市がこんなことを言うなら、まずは赤穂事件を直接扱った忠臣蔵そのものを放送禁止にすることを宣言することから始めるのがスジである。

だが、高市はそんなことには言及しないらしい。恐らくは自分に刃向かうものをすべてテロとレッテル貼りをし、その発言を全て封じ込めたいというのが彼女の足りない脳味噌に充溢した思想だろう。

無論、その愚昧をもたらしている不寛容を徹底的に否定するのは必要な事であるし、彼女が泥に塗れて自らの無能と知能の低さを実感するまでは叩き続ける必要があるのは言うまでもない。けれども、より深刻なのは、上に述べたような文化的パースペクティブを全く視野に入れられない程度の頭の悪い無教養な人間が国民の代表ヅラをして権勢を振るっていることではないのか。安倍も、麻生も、その他安倍の取り巻き連中に共通するこのような文化的素養の徹底的な欠如は、政治家の水準が国民の平均的水準以上には決してならない以上、我々自身が文化的素養のない人々にどう向き合うかという問題を提起せずにはおかないのだ。

AF-S NIKKOR 200-500mm f/5.6E ED VRを買ったヽ(´ー`)ノ

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フルサイズ判のD750に移行して半年が経ちました。

広角端は期待通りちゃんと広く、14-24mmF2.8も性能通りの広々高画質で幸せなのだが、その反動として望遠での撮影に困るようになってしまった。一応DX Nikkor 18-200mmF3.5-5.6VR(初代)は持っているのですが、DXフォーマット用レンズであることに加え、24-70mmF2.8(旧型)を普段から使っている身としては色収差もさることながら、解像感の甘さなどの点で画質に強い不満を抱く場面が少なくないのですね。飲み会とかのカジュアルな場面に持ってく分には軽いしVRもあるしなので、50mmF1.4(旧型)みたいな単焦点レンズをもうひとつ持って行けば充分なのですが、飛行機とかを撮る時にはやはりそれなりの望遠レンズが欲しくなってしまったという次第です。

そんなわけで、去年の暮れあたりからシグマの150-600mmSportsとAF-S NIKKOR 200-500mm f/5.6E ED VRのどちらにするかを結構迷っていたのですが、前者はAF精度と速度の甘さが気になるのと、USB Dockで色々とカスタマイズしないと本来の性能が引き出せないという問題、及びリセールバリューが気になり、このレンズにすることにしました。きっかけとしては、会社の先輩の演奏会での撮影というのがあるけれども、それは最後の一押しに過ぎないので、まあ望遠が揃って良かった良かったという次第です(本当は70-200mmF2.8VRIIがまだ残っているので、それは来年以降の購入になると思います)。ちなみに、70-300mmというクラシックレンズはさすがに設計などが古すぎて最初に候補から外しました。設計面では枯れたレンズなので、硝材などが進歩するなどすればもっと良くなるのでしょうけど。

で、届いたので写真撮ってみました。でけえ!

後玉のレンズキャップからレンズ先端までの距離はおよそ30cm、フィルター径は95mm、重さは三脚座込みで2300g! ボディにつけると3100g強となり、生まれたての赤ちゃんの体重とあまり変わりません。世のお母さん方は偉いなあ……

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D750 / AF-S NIKKOR 200-500mm f/5.6E ED VR / F5.6 / 1/250秒 / 500mm / ISO100 / 絞り優先

練習がてら手持ちであちこち近所でフラフラと撮ってみましたが、正直、1時間も使っていると腕や首が疲れてきます。一日持ち歩く時には、一脚か三脚ないと筋肉痛とかがお待ちかねになります。

画質は、テレ端でも開放から周辺減光も少なく、良好な画質です。さすがに金環レンズのような解像感と色乗りはないのですが、解像感自体はF8あたりまで絞るとかなり改善されます。無論、その分シャッタースピードを遅くするか感度を上げないといけないので、低感度で良好な画質を得たい場合にはやはり一脚か三脚の使用が必須となるかと思います。

飛行機とか電車などの圧縮効果を活かせるものを撮りに行ったら、また掲載したいと思います。

Adios Nonino: さよなら、じいちゃん

このことをどう書いていいのか、今でも言葉が見つからない。

 

約25年前、高校1年生の時、南仏のとある夫妻の許にホームステイをした。半月少々のことだったが、彼らの温かい受け入れとラテン的な朗らかさが持つ陽気さは、元々は相当に内向的だった私の性格をかなりの部分で変えてくれた。今でも内向的ではないといえば嘘になるが、それでも初めて会う人に外国語でも物怖じせず話しかけるだけの度胸を植え付けてくれたのは、彼らの家庭で過ごした経験のおかげに他ならない。

そしてそれ以来、彼らとは文通を欠かさず、時に応じて起きた様々なことをやりとりしていた。特に留学中からは数年に一度は必ず彼らの許を訪れ、成人してようやく飲むことができるようになったワインや食前酒を酌み交わしながら色々な話をした。夫人の母親はスペイン系で、スペイン内戦を逃れてフランスに移り、フランコに対する敵意から、その後亡くなるまでスペイン語を一言も話さなかったということ。そして旦那さんはベルギー生まれだったがナチスの侵攻に伴い這々の体でパリに逃げてきたはいいがフランスもまたナチスに降伏し、色々と苦労したこと。そして戦後は彼は消防士として活躍し、その時の勲章が棚に飾ってあること。私が共著ながらも本を出したときには、その内容は(日本語で書かれているから)全く分からないにもかかわらず、誰よりもそれを喜び、玄関の飾り棚にはずっとその本が飾ってあったこと。25年の長い関わりの中で、嬉しいこともあれば、悲しいことも、そして白熱した議論を交わしたことも、もちろんあった。

しかし、時間の流れは私の希望とはお構いなしに進んでいく。2014年の秋に彼らに会ったとき、旦那さんの衰えようは誰の目にも明らかだった。かつては素手でビールの王冠を外すだけの腕力の持ち主だった彼が、歩くこともままならない状態だったのだ。その当時で85をとっくに過ぎていたとはいえ、かつての健壮ぶりを知る身としては途轍もなくそれが悲しく、私は帰りの電車の中で人目も憚らずに泣いた。

そして今年の初頭、夫人からもらった年賀状には彼が酸素吸入器をつけた状態で寝たきりとなっており、そう先は長くないと記されていた。それでも元が頑丈な人だから、夏ぐらいまでは持ってくれるのではないかと希望を持っていたのだが、年賀状を受け取った翌週、彼の孫(彼自身とももう25年の付き合いで、会うとスラングまみれの酒を酌み交わす仲である)から、その死を伝える連絡を受けた。そして遺言通り、翌日には荼毘に付すという。私の記憶するところでは彼は散骨希望だったから、遺灰は地中海のあの美しい海原に今頃は還っていることだろう。かつて、彼は「今まで魚を沢山食べてきたから最後は魚のえさにならないとな」と冗談めかして言っていたのだから。

仕事もあり、航空券は通常運賃のため尋常ではない価格のため、しばらくは夫人と故人の想い出を語りに行くことはできない。だから急遽の策として国際ネットワークで花を贈る手配をしたのだが、その間に私が参加しているオーケストラの演奏会が行われた。中プロのチェロ協奏曲のアンコールピースは、ソリスト氏が弾き振りをするピアソラの「アディオス・ノニーノ」であった。

この曲の由来については多くの解説がネット上で読めるので、ここではそれには言及することはしない。ただ、親しき者を喪ったとき、現実の生活がその喪に服す優しさを持ち得ていないことに由来するこの曲の響きは、かつての過ぎ去った愛おしく優しく美しい日々のことを、ピアソラの個人的な思いを超えて私の悲しみと共鳴するように私は感じた。ピアソラが父の想い出を、その物理的な遠さ故の苦しみと共に奏でるとき、それは少なくとも私個人の極個人的な南仏の彼に対する想い出と照応しあうのだ。

この曲を練習しながら、私は何度も嗚咽に自己のコントロールを失いかけた。だが、私的な悲しみを普遍的な人間の日々の悲しみと追憶に昇華させたピアソラの凄さは、それが鳴り響くことで恐らくはそのような経験を持つ全ての人の心に響く点にある。それこそがこの曲を演奏することで伝えるべき事なのだと、当日は主観に任せてアンサンブルを壊すのではなく、伝えることに徹し、ホールの中空に浮かぶ、彼の思い出を瞼に感じつつ演奏をした。

そして帰宅。酒がいい具合に回っていたのだろう。一服し、椅子に掛けて、再度、今度は自分のために、Adios Noninoを聴いた。暗い部屋で、涙が滂沱と流れるのを感じた。それは全て過ぎ去った、かつての「あの」ともはや形容するしかできない時代の、全ての想い出に対する、私なりのお別れだったのだと思う。

 

さよなら、じいちゃん。よく休んでください。
あの快活な笑顔、絶対に忘れません。

youtu.be

忘れること、そして思い出すこと。

withnews.jp

そんなサイトやブログを、いくつか知っている。
同時進行形でその更新が止まる様を見てきたケースも、いくつかある。『魔法の笛と銀のすず』は、その最初の例だったろうか。そして、最近では、松来未祐さんのブログがそうだったろうか。

そして、そんなときの一つに関連して、以前私はブログに書いたことがある。それを転載したい。


「デジタルとは、残酷な世界である。物理的な障害が生じない限り、メディアに刻まれた情報はそれを残した当人の時間を超えて蓄積し、残存していく。じじつ、ネット上では、今は既にこの世にいない人々が残した文章、写真、イラスト、動画等を、私たちは見ることができる。それはまぎれもなく、彼ら・彼女らがかつては情熱をそこに注いでいたのだという在りし日の息吹を、伝えてくれる。


だが、人間というものは、忘れることで生きていけるものではないのかと思う。いや、正確な言い方をすれば、全ての生々しさから少しずつ少しずつ形象をはぎ取って、過去というものを時間の回廊にしまい込んでいく作業をするからこそ、私たちはそれが語り得ぬものではなく、語られうるものにようやくなることに安堵を覚えるのではないだろうか。


しかし、このデジタルという世界は、そのありがちで表層的な理解とは全く逆に、全ての生々しさをそのままにとどめることによって、私たちが忘れることを許してくれない。それは、タンタロスのように永遠の乾きという罰を受けているかのような痛みすら与え続ける。


もちろん、その生々しさと共に忘れてはいけない過去というものは、確かに存在する。けれども、私は、時には少しずつ忘れることで、人として穏やかにありたいと思う」

スケールメリットあるいはディスタンクシオン

あけましておめでとうございます。

さて、実は今度とあるアマチュアオーケストラの演奏会に出ることになったのですが、おかげさまで知り合いに色々と聞いてみたところ、チケットのもらい手が数多く、10枚以上さばくことができました。そのうち少なくない枚数は会社の同僚です。ありがたや。

大学生時代にいたオケではチケットのノルマが厳しく、タダでばらまいても全然来てくれなかった(友達が少なかったとも言う)のに比べるとエラい違いです。また、以前いたとある小さい会社でも、オーケストラの宣伝をしても誰一人来てくれなかったのに比べてもかなりの違いです。これはスケールメリットなのか、あるいはディスタンクシオンなのか、少し自問する日々です。

舞台は魔物です。

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先週、外国で開かれたカンファレンスでちょっとしたプレゼンをしてきた。

ちょっとした、とはいってもボールルームに入場した聴衆は少なく見積もっても2500人。主催者によると、カンファレンス全体では5000人くらいは来場しているのだそうな。ちなみに、2500人というと東京文化会館の大ホールの全座席数よりちょっと多いくらいである。5000人というと幕張メッセイベントホールをアリーナ+エ型花道形式で使用したときの収容可能人数の半分くらい。まあ人数だけはムチャクチャ多かった。実際当日は会場となったホテルの周辺はひどい交通渋滞が起きていた。鉄道などの大量輸送公共交通機関がまともに整備されないまま都市の規模だけドカドカでかくなってしまったことの弊害がこういう点にも表れている。

それはそうとして、このようなカンファレンスで外国人がプレゼンをする場合、用いる言語は英語が普通だ。決してメジャー言語ではないこの国の言語をあえて使用するような伊達あるいは酔狂をあえてやろうという御仁はまずはいないと思っていい。

今回、私はそれを敢えてやるという奇策に出ることにした。というのも自分のプレゼンの中身があんま面白いものではないという認識があったので、ここはいっそ話し手がある種の芸を見せることで聞き手の知的興奮とプライドをくすぐってやろうと思ったのだ。

プレゼンに当たっては、原稿の現地語への翻訳をしてもらったうえで、何度も何度も会議室でリハーサルを繰り返した。私もこの言語は全く分からないのに等しいので、まずは音だけでもなんとか丸め込もうということで、ひたすらひたすら朗読を繰り返して、要所要所にアンダーラインやカコミをつけて「いかにも分かってしゃべっている」感を演じようとしたわけだ。そりゃネイティブからすればバレバレなんですが。

結果は、それなりに上首尾にいったのではないだろうかと思う。最初に私がこの言語でのプレゼンを始めたとき、会場には小さなどよめきが起き、スライドを切り替えるごとに拍手喝采がおき、最後は少なくない人たちのスタンディングオベーションと、関係者一同からの手荒い祝福を受けた。後半、私は緊張と疲労で脂汗をかきながらボロボロになりつつも必死にプレゼンをし終わったため、実際の記憶はほとんど残っていないのだが、口笛も混じる(ビジネスカンファレンスでそりゃなしだろ笑)スタンディングオベーションの感動は、それでも胸に残っている。そして感情を今でも揺さぶっている。

数多くプレゼンをやってきたとは言っても、ここまでの大人数がいる場所で一人でしゃべったのは高校の卒業式(1500人程度)の答辞以来なので、数十年ぶりにその記録を塗り替えたことにもなるのだが、ステージへの階段を上るときの足が凍るほどの緊張、話し始める前の水を打ったような会場の静寂と闇、そして狙った反応が得られたときの高揚、全て話し終えたときに降り注ぐ拍手、これら全ての経験があの日の私が味わったように、このプレゼンでも回帰してきた。それは無論非日常の極みの体験の一つであり、ともするとその人の価値観への介入すらしてしまうものであり、それを味わうとそれにとりつかれてしまうのも無理はない。やはり、舞台は魔物なのだ。その高揚故の喜びを胸に、もう一度私は日常へと戻らねばならない。

本件をお膳立てしてくれたTさん、Iさん、そして出来の悪い息子を見るように温かな目で祝福してくれたHさん、本当に、本当に、ありがとう。