舞台は魔物です。
先週、外国で開かれたカンファレンスでちょっとしたプレゼンをしてきた。
ちょっとした、とはいってもボールルームに入場した聴衆は少なく見積もっても2500人。主催者によると、カンファレンス全体では5000人くらいは来場しているのだそうな。ちなみに、2500人というと東京文化会館の大ホールの全座席数よりちょっと多いくらいである。5000人というと幕張メッセイベントホールをアリーナ+エ型花道形式で使用したときの収容可能人数の半分くらい。まあ人数だけはムチャクチャ多かった。実際当日は会場となったホテルの周辺はひどい交通渋滞が起きていた。鉄道などの大量輸送公共交通機関がまともに整備されないまま都市の規模だけドカドカでかくなってしまったことの弊害がこういう点にも表れている。
それはそうとして、このようなカンファレンスで外国人がプレゼンをする場合、用いる言語は英語が普通だ。決してメジャー言語ではないこの国の言語をあえて使用するような伊達あるいは酔狂をあえてやろうという御仁はまずはいないと思っていい。
今回、私はそれを敢えてやるという奇策に出ることにした。というのも自分のプレゼンの中身があんま面白いものではないという認識があったので、ここはいっそ話し手がある種の芸を見せることで聞き手の知的興奮とプライドをくすぐってやろうと思ったのだ。
プレゼンに当たっては、原稿の現地語への翻訳をしてもらったうえで、何度も何度も会議室でリハーサルを繰り返した。私もこの言語は全く分からないのに等しいので、まずは音だけでもなんとか丸め込もうということで、ひたすらひたすら朗読を繰り返して、要所要所にアンダーラインやカコミをつけて「いかにも分かってしゃべっている」感を演じようとしたわけだ。そりゃネイティブからすればバレバレなんですが。
結果は、それなりに上首尾にいったのではないだろうかと思う。最初に私がこの言語でのプレゼンを始めたとき、会場には小さなどよめきが起き、スライドを切り替えるごとに拍手喝采がおき、最後は少なくない人たちのスタンディングオベーションと、関係者一同からの手荒い祝福を受けた。後半、私は緊張と疲労で脂汗をかきながらボロボロになりつつも必死にプレゼンをし終わったため、実際の記憶はほとんど残っていないのだが、口笛も混じる(ビジネスカンファレンスでそりゃなしだろ笑)スタンディングオベーションの感動は、それでも胸に残っている。そして感情を今でも揺さぶっている。
数多くプレゼンをやってきたとは言っても、ここまでの大人数がいる場所で一人でしゃべったのは高校の卒業式(1500人程度)の答辞以来なので、数十年ぶりにその記録を塗り替えたことにもなるのだが、ステージへの階段を上るときの足が凍るほどの緊張、話し始める前の水を打ったような会場の静寂と闇、そして狙った反応が得られたときの高揚、全て話し終えたときに降り注ぐ拍手、これら全ての経験があの日の私が味わったように、このプレゼンでも回帰してきた。それは無論非日常の極みの体験の一つであり、ともするとその人の価値観への介入すらしてしまうものであり、それを味わうとそれにとりつかれてしまうのも無理はない。やはり、舞台は魔物なのだ。その高揚故の喜びを胸に、もう一度私は日常へと戻らねばならない。
本件をお膳立てしてくれたTさん、Iさん、そして出来の悪い息子を見るように温かな目で祝福してくれたHさん、本当に、本当に、ありがとう。
プレスリリースの転記はまずいとしても、ケータイWatchはデータの読み方をおさらいし直せ
これ、記事の見出しがまずい。
MMD研究所のプレスリリースではキャリアのスマホユーザーの月あたりのデータ使用量について「キャリアユーザーの21.5%が「分からない」と回答し」とちゃんと最初に書いているのに、この記事の見出しは「大手キャリアのユーザー、「月の通信量1GB」は1割だった」とナニそれな話になっている。
このグラフから読み取れるのは、
・格安(MVNO)スマホのユーザーは総じて月のデータ使用量について自覚的である
・月のデータ使用量が5GB以上ではキャリアスマホの使用者が(恐らく有意に)多い
という2点であって、本記事をまとめた石井徹氏はデータの読み方をちゃんと勉強した方がいいと思います。
まあ、回答者の記憶に頼っているというリサーチデザインがそもそもまずいという話もなくはないのですが、記事のリードがアレであるというのとは別の話です。
石投げる前にその石で自分の頭を叩け
一週間経ったので、フェイスブックのプロフィル画像を元に戻しました。
このフェイスブックのキャンペーンについては、色々と異論百出であったことは知っています。なぜフランスだけ「特別扱い」なのか、同時期に世界各地で起きた様々なテロについてはなぜ祈りとか連帯を示さないのか、というものです。
それ自体については、全くその通りでしょう。現代史を省みるに、歯止めが利かないレベルで悪化したテロや暴力には必ずと言っていいほど世界からの無関心がつきまといます。ダルフール紛争やポソ宗教紛争、開発を口実としたアマゾンの少数民族に対する暴力、ビルマのロヒンギャに対する暴力(これについてはアウン・サン・スー・チー氏も見て見ぬふりをしてきた感が否めません)、その他枚挙にいとまがありません。そして恐らく、シリアの内戦がここまで悲惨な状況になったのには、同国が資源に乏しいことに由来するであろう世界からの当初の無関心があります。従って、それらを例としてフランス、就中パリだけを特別扱いしやがって、という反発が起きる理由は理解できないでもありません。
しかし、それらの異を唱える人々は、嘗てそのような世界の悲惨に対して積極的に異議申し立てや「祈り」を捧げたことがあったでしょうか。例えば、フィフィという小児右翼は今回の件について上記のような異論を述べています。ですが、彼女は例えば第3次中東戦争におけるイスラエルの暴虐、そしてヨルダン川西岸地区で今も続くイスラエルの民族浄化について、公に非難を表明したことがあったでしょうか。少なくとも私の記憶する限りではノーです。同様の意見をブログで書いている長谷川豊という小児右翼もまた、例えば小児右翼が「親日」と誤解しているトルコによるアルメニア人虐殺と今も続くクルド人に対する差別政策について異を唱えたことがあったでしょうか。
一日は二十四時間しかなく、人の生は有限ですから、世界の悲惨全てについてステートメントを出したり、態度を表明することは困難です。ですが、それらの出来事一つ一つについて、それぞれの人々がそれぞれの立場で連帯などを表明していたなら、テロに参加した人々の孤独な生は違ったものになっていたかも知れません。そう考えると、パリに連帯を表明する人に石を投げた人々は、石を投げる前にまだやることがあったのではないか、私はそう思うのです。
1ヶ月詰め込み大作戦
12月にとある場所で初めて使う言語(プログラミング言語じゃないよ)でスピーチをすることになりました。1ヶ月掛けて内容丸暗記と身振り手振りを身につけるわけですが、できるかなあ。
この歳になって久々の大挑戦ですよ(;´Д`)
ネトウヨの香ばしさが秋の夜長に彩りを添えております。
トルコに仕事で行ってました
先日、トルコのイスタンブルに出張で行ってました。イスタンブルは一日中どこの道もオンボロ車だらけで渋滞してる+どいつもこいつも歩きタバコを余裕でかましてるので、港湾都市とは言えかなり空気が汚くて、湿度の低さもあって完全に気管支をいためました。今薬飲んでますが、咳がつらいです。ゴホゴホ。
で、一応フリーというかトルコ語実践大活用(結果は全面的敗北)の時間も少しあったのであちこちウロウロしていたのですが、去年に比べて子供の物乞いがムチャクチャ増えてます。話している言語が明らかにトルコ語ではなく、所々に聞いたことのある近東アーンミーヤの語彙が混じっているため、恐らく彼らはシリア難民であると推定されます。
正直、直視できません。中には靴も履かず、足を真っ黒にして広場でミネラルウォーターを売っている子や、疲れ果てて地下鉄のコンコースで寝ている子供もいます(私は報道写真家ではないし、人道に反すると思い写真は撮りませんでした)。トラムでは色々な人に跪いたりしてお金を恵んでもらっている子もいます。
これが都市での難民の姿です。はすみとしことかいう想像力が欠落した小児右翼は、せめてイスタンブルに一度来るべきです。タクスィム広場に子供の物乞いが何人いるのかをカウントし、彼らがどのような状態にあるのかを見てもあのような事が言えるのかどうか、知りたいものです。