sadaijin_nanigashiの日記

虚無からの投壜通信

日々のあれやこれやをいろいろと。

石投げる前にその石で自分の頭を叩け

一週間経ったので、フェイスブックのプロフィル画像を元に戻しました。


このフェイスブックのキャンペーンについては、色々と異論百出であったことは知っています。なぜフランスだけ「特別扱い」なのか、同時期に世界各地で起きた様々なテロについてはなぜ祈りとか連帯を示さないのか、というものです。
それ自体については、全くその通りでしょう。現代史を省みるに、歯止めが利かないレベルで悪化したテロや暴力には必ずと言っていいほど世界からの無関心がつきまといます。ダルフール紛争やポソ宗教紛争、開発を口実としたアマゾンの少数民族に対する暴力、ビルマロヒンギャに対する暴力(これについてはアウン・サン・スー・チー氏も見て見ぬふりをしてきた感が否めません)、その他枚挙にいとまがありません。そして恐らく、シリアの内戦がここまで悲惨な状況になったのには、同国が資源に乏しいことに由来するであろう世界からの当初の無関心があります。従って、それらを例としてフランス、就中パリだけを特別扱いしやがって、という反発が起きる理由は理解できないでもありません。
しかし、それらの異を唱える人々は、嘗てそのような世界の悲惨に対して積極的に異議申し立てや「祈り」を捧げたことがあったでしょうか。例えば、フィフィという小児右翼は今回の件について上記のような異論を述べています。ですが、彼女は例えば第3次中東戦争におけるイスラエルの暴虐、そしてヨルダン川西岸地区で今も続くイスラエル民族浄化について、公に非難を表明したことがあったでしょうか。少なくとも私の記憶する限りではノーです。同様の意見をブログで書いている長谷川豊という小児右翼もまた、例えば小児右翼が「親日」と誤解しているトルコによるアルメニア人虐殺と今も続くクルド人に対する差別政策について異を唱えたことがあったでしょうか。
一日は二十四時間しかなく、人の生は有限ですから、世界の悲惨全てについてステートメントを出したり、態度を表明することは困難です。ですが、それらの出来事一つ一つについて、それぞれの人々がそれぞれの立場で連帯などを表明していたなら、テロに参加した人々の孤独な生は違ったものになっていたかも知れません。そう考えると、パリに連帯を表明する人に石を投げた人々は、石を投げる前にまだやることがあったのではないか、私はそう思うのです。