sadaijin_nanigashiの日記

虚無からの投壜通信

日々のあれやこれやをいろいろと。

ブレードランナー 2049を観てきました(思いっきりネタバレしてますので未見の方は読まないでください)

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昨日、近所のシネコンにてブレードランナー2049を観てきました。予習として前日譚にあたる3本の短編は全部見てから当日に臨みました。

正直な感想を言うと、イマイチだなと思いました。独立した作品として評価しても、余り出来のいい作品とは思えません。お金がものすごい掛かっているのは分かるんですが。

まずい点を列挙するのは余り気が進まないのですが、まずやはり指摘しておくべきはストーリーが散漫で集中を欠くという点です。前作でカルト的人気の下地になった夢も希望もない公害で汚染されまくり&環境破壊で世界はメチャクチャという世界観を大事にしようとしすぎる余り、その世界観が表象していた現存在の悲惨という観点が抜け落ちていたように思われます。

そして、最大の問題は「人間が人間である本質とは何か」というこの作品のコアとなるテーマがストーリーに受肉していないということに尽きます。
無論、この問いに対する一応の答えは作中で語られるのですが、底が浅すぎて「おいおいそれじゃイスラム国のテロリストと変わらないやろ」とツッコミいれたくなるレベルのもので、これならピコ・デラ・ミランドラの『人間の尊厳について』を下敷きにしている『まおゆう』のメイド姉さんの演説の方が内容的には遥かに深いです。
どういうことかというと、「大義に殉じる」ための理念が崇高であるのは、それ自体として無条件に大義=理念が崇高だからではないということです。それに向かって個々の現実に生きる人間の無限の日々の努力が蓄積されていくからこそ、理念に向かって生きる人間はその意志の力を他の人々に示すわけです。その過程をすっ飛ばして「理念を持っているから我々は人間より偉い」という結論に飛びつくのは、いくら映画の中のお話としても乱暴すぎます。

そして、ドゥニ監督の人間観の底の浅さが露呈してしまっている代表的な場面が、囚われの身となったデッカードの前にレイチェル(の偽者)が登場するシーンです。「本物」のレイチェルは28年前に娘を出産して死んでるのですが、ネアンデル・ウォレス(彼の名前は現生人類に滅ぼされたネアンデルタール人を連想させ、それは新型レプリカントに人類が絶滅させられるであろうということを示唆している)が自分たちに味方した場合の褒賞として「復活」させてデッカードの前に登場させたレイチェルは、30年前のデッカードと初めて出会ったときのレイチェルなのです。

これは、ダメでしょ。

だって、デッカードはそこから28年間隠棲を続けており、レプリカントだけど年齢相応の老け方をしているわけです。だとすれば、再会を言祝ぐ相手は彼同様に老け込んだレイチェルでなければならない。そして2人は過ぎ去った年月のことの四方山話に花を咲かせ、再びどこかの人里離れた秘密の場所で静かな暮らしを送り、28年前に分かれた2人の時間を再びひとつのものとして進めることこそ、虚構とか本物であるとかのつまらない区分を超えての人間性の獲得あるいは回復になるはずなのです。レイチェルの28年分の四方山話の記憶は当然人工記憶になるでしょうが、パートナーと時を渡っていくというのは、そういうことです。離れていたにせよ、同じ時代として蓄積してきた時間の重みが、「人間」としてのこの世界への存在の痕跡を形成するのですから。単なる若いレイチェルを眺めたいなら、それこそ本作の主人公であるKの彼女であるジョイのように人工知能ARアバターにレイチェルのペルソナを移植すれば済む話であるのですから。

前作が映画史に残るダークSFの金字塔となったのにはいくつかの理由がありますが、そのうちで欠かすことのできないのは、やはり最後の場面でのロイ・バッテイ(ルトガー・ハウアー)の"Tears in rain"と呼ばれる詩情あふれる独白でしょう。この詩がもたらす圧倒的な余韻と感動は、同時にこの映画の核心に「人間とは何か」が明確に宿っていることを私達に残して行きます。本作では、このプロブレマティークを観客に叩き付ける「何か」が欠落していました。もしかすると今後のリテイクあるいはマイナーバージョンアップでこのあたりが変わっていくのかもしれませんが、今のままでは「ブレードランナー2049」は中途半端な作品だったと言わざるを得ません。

というわけで、最後に「まおゆう」のメイド姉さんの演説を一部引用しておきたいと思います。

私は、自信がありません。
「この身体の中には、卑しい農奴の血が流れているじゃないか」
「お前は所詮、虫けら同然の人間もどきじゃないか」と。

だからこそ、だとしても、私は、人間だと言い切らねばなりません。
なぜなら、自らをそう呼ぶことが、人間であることの最初の条件だと、私は思うからです。

(中略)

精霊さまはその奇跡を以って、人間に生命を与えてくださり、その大地の恵みを以って、財産を与えてくださり、その魂の欠片を以って、私達に自由を与えてくださいました。

― 自由?

そうです。
それは、よりよき行いをする自由、よりよきものになろうとする自由です。

精霊さまは完全なるよきものとして人間を作らずに、毎日少しずつ頑張るという自由を与えてくださいました。

それが、「喜び」だから。

だから、楽するために、手放したりしないで下さい。精霊さまの下さった贈り物は、たとえ王でも、たとえ教会であっても、侵すことのできない神聖な宝物なのです。

― 異端め!その口を閉じろ!

閉じません!私は人間です!

もう私は、その宝物を捨てたりしない!もう「虫」には戻らない!!

たとえその宝を持つのが、辛く、苦しくても、あの昏い微睡みには戻らない!