sadaijin_nanigashiの日記

虚無からの投壜通信

日々のあれやこれやをいろいろと。

長谷川豊氏の愚昧さはもちろんだとしても

フランス旅行記は明日また続きを書く予定です。

さて、巷間では長谷川豊氏のブログに端を発する一連の問題が少なからず囂しいようだ。結果彼はテレビのレギュラー出演枠を全て失ったそうで、かなり前から彼の発言がどんどん過激化し、かつ思慮を欠くものになっていったのを見ていた側としてはその帰結は当然のものと思えなくもないのだが、ここまでで彼が連発していた「自己責任」という卑語は、改めてある種の問題を私たちに提起しているように感じられる。

それは、「自己とは何か」というより根本的な問いである。即ち、日頃私たちが行う行動のどこまでが、徹頭徹尾自己という単一の存在によって決定されているのかということを、「自己責任」という卑語で思考停止することなく、主体あるいは個人を囲繞する構造の点からもっと考えるべきではないのかということをもう一度考えてみる必要があるのではないかと私は思うのだ。

例えば、米国では貧困層になればなるほど肥満の比率が高まることがよく知られている。これは貧しくなる=太るという因果関係を直接的に意味するものではないが、食費に対する支出余地の減少が、結果として栄養バランスを無視した食事に人々を至らしめているという事が指摘されている。即ち、米国の貧しい消費者は自ら進んで積極的に肥満になったのではなく、経済構造がもたらす一つの消極的帰結として肥満に陥りがちだということである。

従って、このとき貧困な肥満層がマクドナルドの安いハンバーガーをぱくついていることを論って「お前の日頃の生活が怠惰だからだ」とさも現実主義者の冷徹さを維持しているかの如く罵倒するのは、自己決定に対する構造的問題の半分しか見ていないことになる。その裏側には、常に社会的・経済的構造が個人を使嗾しているという真実を見ようとしなければ、そのような罵倒は現実主義に名を借りた表層主義的な反知性主義と言わねばならない。

長谷川氏が今回の問題で、ともすると優生学的思想に陥りがちな自らの知的退嬰に関する馬脚を現したのは別に驚くべき事ではない。だが、それを他山の石として私たちが何かを学ぶべきであるとしたら、個別の現象を全て自己責任に基づく合理的意思決定であると古典主義経済学の主体のごとき短慮に基づく即断をするのではなく、個人の意志過程にどれほどまでに社会的・経済的関係が介入しているのか、そしてそこでの個人は素朴な主体では最早あり得ないのだということを、静かに見据える真に現実主義的な眼差しが必要なのだということであろう。