sadaijin_nanigashiの日記

虚無からの投壜通信

日々のあれやこれやをいろいろと。

私の「母校」はもうなくなった

変わらないことの意味 (内田樹の研究室)

あちこちで言及あるいは引用されている有名な記事ではあるが、私もこれを読んで思うことがあったので、少し想い出も含めて綴ってみたい。

私の通っていた中学・高校は第1外国語でフランス語を選択することができた。私が在学していた当時で既に相当の少数派だったが、それでも学年の2割は第1外国語としてフランス語を選択していた。

フランス語の授業は結果かなりの少人数で行われることが常だった。曲がりなりにも進度別も兼ねての複数クラス編成を採っていたため、1クラスあたりの人数はせいぜいが20人程度という非常に恵まれた環境でみっちりと動詞の変化からロマンス言語学の基礎まで叩き込まれることができた。

楽しいこともそれなりにあった。年に一度フランス語を教えている学校の関係者だけを集めて行われる「フランス語フェスティバル」というイベントは、ほとんどの参加校が女子校で、男子校という異様な空間で日常を過ごしていた私達にとってはそれはそれは胸躍る機会であった。打ち上げでカラオケとかには行けたが、その後の発展がなかったのは残念だっが仕方ない。どこからどう見てもイケメンではないし。

無論、教員の中には学校の閉鎖性に由来するろくでもない連中がいたのは事実である。体罰という名の暴力は日常茶飯事だったし、フランス語以外は何も知らない、無教養が服を着て歩いているような輩もいた。それは記憶を美化することなく指摘しておく必要があるだろう。

というわけで、フランス語を6年間学習し、その結果として帰国子女でも何でもない、中流かそれより下のサラリーマン家庭出身の私が少なくとも大学入学時にはフランス語での日常会話やそこそこの作文には困らない程度の能力を身につけられたのは、このおかげだと言っていいだろう。その後の英語での苦闘という苦い想い出も含めて、今に到る語学力の基礎を形成できたこの時期の教育過程については今でもそれなりに肯定的な評価をしてはいる。

だが、数年前、私がフランス語を学んだ学校は、事実上のフランス語廃止を断行した。大学受験でもフランス語を廃止するところが増えてきたし、特に医歯薬理工系ではその流れは顕著である。私が卒業した私大文学部も仏語は選ぶことができるがセンター試験のスコアを用いるという形になっており、歯ごたえのある良問揃いだった過去の独自テストは消滅してしまった。一応「進学校」を僭称する以上、経営上の理由もあるからフランス語教育を切り捨てるのは仕方ないだろうという判断であろうと思う。

だが、一度壊してしまったものを元に戻すのは、大変な努力がいる。特に、形のないものを壊してしまった場合、それを元に戻すのはほぼ不可能に近い。なぜなら、形のないものは、それを伝える人たちの心や記憶の共有と連続性の中に、その在処を小分けにして見出しているからだ。だから、一旦それが途切れてしまったら、その形のないものは、時間の彼方に、それを取り戻すよすがもないまま、徐々にその具体性を摩滅させながら消えていく。例えば私が死んだら、ここに書いたような物語は単なる記録でしかなくなり、過去のある時点の墓標以外の意味は持たないだろう。それは確かに読み取ることはできるだろうが、理解することはできない。永遠にだ。

「時代のニーズに応える」という言葉は響きが良い。だがそれは、今の利益に固執する余り、未来も、そして過去に対しても盲目になり、それらを切り捨てることを意味する。未来を切り捨てるということは現在の判断に対しての歴史的視座に基づく責任から逃走し、つまるところ現在の人々に対するより多面的な思考を放棄するということでもある。そして過去を切り捨てるということは、自らが歩いてきた足跡を全て抹消することで、自分が今どこに居るのかという認識について無能であることを意味する。

同時に、それは私が彼らの現在から切り捨てられたことをも意味する。無論、切り捨てる方とて「泣いて馬謖を斬る」の心情だったかもしれないだろうことは想像するに難くない。だが、切り捨てられた馬謖は泣くことを云々する以前に斬殺されたのだという事実を、「時代のニーズに応え」たがる人は思い起こした方がいいだろう。

かくして、私の「母校」はもうなくなったし、年に一度同窓会費を払えと送ってくる出所不明の手紙は全て受取拒否をしているのです。

予想通りのマスダールシティ

wired.jp

マスダール・シティの話は某マンションデベロッパーが「ウチらはエコ企業ですよ」とのたまうために出してた広報誌(という名のプロパガンダパンフ)で目にして「あー、どうせ金脈が尽きたら砂に埋まるだけなんだろうなー」と思っていたのですが、予想通りの展開のようです。

そもそもが大変な上質紙で作られたその広報誌自体が資源の浪費なので、人類そのものが滅ばない限りゼロエミッションとかやはり無理なのだと思います。

とある音楽家の肖像

Facebookで小児右翼丸出しの発言を続けている、自称音楽家がいる。一応音楽で飯は食えているらしいので、プロであることくらいは認めてやってもいいだろう。といってもクラシック畑の割にはライブハウスでの小規模ライブがメインなので、ソリストで客演するようなプロでは勿論ないし、オーケストラ等の団体のオーディションに受かるほどの技量や社会性があるわけでもないということは想像に難くない。

まー、その人、アマチュアを馬鹿にしまくるわけですよ。そりゃ例えば小生の師匠は小学生の時に24のカプリースをやったぜヘイと言ってきったない(褒め言葉)書き込みだらけの楽譜を見せてくれたことがあるくらいですし、有名プロオケの奏者というのは普通のアマチュアとは天と地ほどの実力の違いがあるのは認めないとならないですね、練習に割ける時間も違いますし。でもアマチュアを馬鹿にするなら、アマチュアへの指導で小銭を稼ぐとか絶対やっちゃダメだろう、ブーレーズがアマチュアとの関わりを一切持たなかったのと同じように。でもその人にはプロ志向ではないお弟子さんが居るらしい。あれ?

更に笑わせるのは、このお方が歴史プロパーに噛み付きまくるということです。少なくとも歴史分野について言えば、この音楽屋さんはアマチュアです。つまり彼の論理を適用すれば、自らは素人としておとなしく社会の片隅で小児右翼向けの愛国ポルノを読むべきなんですが、どうもそうではないらしい。自分の政治的立場と違うなら、「左翼」だのなんだのと理屈をつけて噛み付き、自分の知識の欠如を省みようともしない。

あの、そういうのってダブスタって言いませんか?そしてそれに自覚的になれないほど、自己認識が欠落しているのですか?

この音楽家様のWebサイトではおとなしくライブ情報だけを掲載しているらしいですが、歪んだ内面というのは往々にして表現にそれが表れるものです。私も他山の石として、気をつけつつ、こういう蒙昧に陥らないためにも日々勉強したいと思います。

頭が空っぽの奴は知識労働の価値が分からない

www.asahi.com

>「コミュニケーション能力がある」「外国語が話せる」「1日8時間、
>10日間以上できる」「採用面接や3段階の研修を受けられる」
>「20年4月1日時点で18歳以上」「競技の知識があるか、観戦経験がある」

そして、
>宿泊や交通費は自己負担

これで誰がやるって言うの?


そうか、基本的には赤字を垂れ流すだけのハコモノには数千億円を嬉々としてつぎ込む割には、個々人が血のにじむような努力の末に身につけた語学力と競技知識はタダ乗りさせてもらおうということか。さすが、脳味噌筋肉の連中とサメの脳味噌の森喜朗一味は考えることが違うね。五輪なんかもう辞めちゃえよ。その金で保育園とか奨学金とか充実させれば、どれほど多くの人が幸せになることか。森と彼を押し立てる一味が不幸になったところで、それは大したことではないし。

バカにつける薬はないな

www.asahi.com

返すあてのない国債を濫発してプライマリーバランスを崩壊させたのはあんたがた自民党でしょうが。このおばさんは脳味噌に綿でも詰まってるのか?

そもそもこの極右ババア、戦争は人間の霊的進化に必要だとかエンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラも仰天するような知能ゼロの発言をかましてたことは夙に有名だが、「積極的平和主義」とやらを実践するためには、この種の害虫を駆除することから始めないといかんのではないかい?

音楽はいいね、リ(以下略

f:id:sadaijin_nanigashi:20160615231414j:plain

6/12、ル・スコアール管弦楽団第40回演奏会に出演してきました。曲目はオリヴィエ・メシアンの「トゥランガリーラ交響曲」一曲のみというガチンコプログラム。アマオケでやることそのものが無謀との誹りを逃れえない難曲大曲阿鼻叫喚の大傑作ですが、メンバーの皆さんの意地と誇りを賭けた熱量の高い演奏もあり、演奏会自体は極めて上首尾だったと言っていいと思います。そんなわけで、完全な燃え尽き状態に今もまだあり、ああ、こうして時間て過ぎていくのだなーとか思いつつ、完全な抜け殻状態を引きずったまま、バキバキに痛む節々をマッサージしつつダラダラと日常への軟着陸を試みております。

私の好きな漫画のひとつに、『ぼくらの』という作品があります。この作品の登場人物は「ジアース」というロボットに乗って戦うんですが、ジアースは搭乗者の生命を動力源としているため、戦闘が終わると問答無用で搭乗者は死にます。これは敵のロボットも同じです。
で、この搭乗者たる登場人物のひとりに、古茂田さんというピアノを愛するお嬢さんが出てきます。紆余曲折あって、古茂田さんは最後敵の搭乗者も来場した演奏会場でピアノを弾いて、死を従容として甘受するのですね。敵の搭乗者も同様に死を受け容れる。
小生としては、このピアノを弾いている時の描写がたまらなく好きなのです。好きというか、心に響くのです。
緊張の余り運指が思うに任せない中、古茂田さんはピアノを弾きつつ独白します。ピアノは何を自分に語りかけているのか、つまりピアノは自分につながっていて、それはとりもなおさず自分が世界につながっていて、世界に包まれているのだと。そして、旋律が汚れない以上、この世界は無前提で美しく愛おしいのだということに気づきます。かくして、この上ない法悦に包まれて、彼女は命を失います。

楽章間の小休止も含めれば90分を超えるトゥランガリーラ交響曲の最終楽章にたどり着いて、混沌の中に多幸感がきらめく嬰ヘ長調の旋律を懸命に齧り付くように弾いていると、全ての生命の祝福と全宇宙への昇華のイメージが幻視のように全身を痺れさせます。眩しい星々の光芒のようなピアニズムと形而上的な甘美さそのもののようなオンド・マルトノの響き、そして歓喜の彼方を呼び覚ますパーカッション群の変拍子、世の終わりと始まりを告げる金管木管の大音量、それらが渾然一体となった瞬間があの場には確実に降臨したのだと私は実感します。そしてその場に与ることができているというこの上ない実存の超越的充足。78ページ(!)あるパート譜の最後のページにたどり着いた時、永遠の現在が終わってしまうのかと戦きつつも形而上的な歓喜に満たされたあの終止和音を全力でかき鳴らしつつ、メシアンという作曲家の計り知れないほどの天才を感じられることの喜びと音楽を通じてこの世界に生を保つことのできるありがたさを実感したのでした。そして最後の全ての生命よ祝福されよと歌いあげる和音が鳴り止んだ直後に訪れる放心状態と万雷の拍手そしてブラボーの声。贔屓目に見ても私の人生は明るいものではありませんが、こういう瞬間が間歇的にであれ訪れるというのは、このつかの間の生に根源を求める上でもよすがとなり得るものだと私は思います。


演奏技術的に見ればボロボロの点が少なくない小生でしたが、素晴らしい皆さんと一緒に演奏できたことはいくら感謝してもしきれるものではありません。誘って頂いたKさんはじめ多くの方に感謝を申し上げ、またこのような機会が人生において訪れることを願ってやみません。

ジャカルタに行ってました

f:id:sadaijin_nanigashi:20160522004614j:plain

先週一週間、仕事でインドネシアジャカルタに行ってました。ゴールデンウィーク前には台湾に出張だったので、ここ一月で結構な海外出張ラッシュに見舞われたという事になります。周りの人は「会社の金で海外行けていいなー」とか言いますが、(自分の主使用アライアンスを使った場合)マイレージが貯まることと、現地の人が残業なんかしないため比較的早い時間に仕事が終わる以外は、外国語で朝から晩までコミュニケーションしないといけないし、日本人的なヌルい駆け引きではなくて即決即断が求められる場面が多いので、著しく疲れるのですね。ウチの会社はケチだからえらい人以外はビジネスクラス使えないし。

f:id:sadaijin_nanigashi:20160522005535j:plain

で、ご存じの方は多いと思いますが、ジャカルタ市内は公共交通機関が壊滅的にダメなので、バス以外の細々とした移動はタクシーかOjek(オジェッ)というバイクタクシーや乗り合いタクシー(アンコラとか色々名前がある)に頼らざるを得ないのですが、タクシー以外はインドネシア語を知らないと利用するのには体を張ったボディランゲージが求められます。若い人は片言だけど英語が通じるのはいいんだけど……

f:id:sadaijin_nanigashi:20160522010924j:plain

んで、一応ジャカルタでは地下鉄は建設進行中なんですが、例によって官吏が汚職まみれのこの国では三角州故の脆弱な地盤もあって遅々として進捗は停滞し、モノレール計画は推進してた大臣が汚職でクビになって以来事実上凍結などもうムチャクチャです。

そんななんで空き時間にちょっと物見遊山をしようとしても一日中渋滞で数キロ離れたところに移動するのに2時間とか平気で掛かるので時間が全く読めないし、そもそも博物館も貧弱なので文化都市という価値は少なくともジャカルタにはありません。せいぜいできることといったら巨大ショッピングモールでダラダラと時間を潰して、レッツボディランゲージで屋台飯を食うことくらいでしょうか。ただし屋台飯は衛生環境が激悪なので、過熱調理したもの以外は絶対食ってはいけませんし、皿自体が細菌まみれなので速攻で完食しないと確実にヒットします。

その他、Wi-Fiは超高級ホテル以外では接続速度が50kb/sec出れば上出来とかネット環境が絶望的にひどいというボロボロさもあるし、スカルノ・ハッタ国際空港は事実上飽和状態になってて沖止めでもないのに飛行機までバスで移動するとかもう面倒くさいからいっそのこと首都移転しちまえよと思わないのではないのですが、普通のそのあたりにいる人は結構親切で世話焼きなのがいいのですよ。ホテルのスタッフも顔を覚えるとほとんど友達みたいなフレンドリーさで色々と融通を利かせてくれますし、そのあたりの人情に篤いあたりはいいなあと思うのです。食い物も小生としてはそれなりにおいしいし。

f:id:sadaijin_nanigashi:20160522011745j:plain

(コタ・カサブランカ内のレストランのフィッシュ&チップス日本風。およそ950円)

ただ、猛烈な貧富の差はやはりきついです。比較的富裕層が来るショッピングモールでは、ご飯の値段が日本円で1000円超えるとかザラで、ジャカルタ都市圏の一般ホワイトカラー労働者の平均月収が8万円、ブルーカラーとか単純労働者だと3万円を下回ると考えると、購買力平価でコンバートすると上記のフィッシュ&チップスは日本人ブライスでは約4200円ということになります。日本国内の外食の価格設定はパートタイム労働者の犠牲に支えられていているため国際的に見てもムチャクチャ安価ではあるのですが、こんなものに4000円以上ポンと支払える人ってどれだけ金持ちよと思わずにはいられないです。しかもこのショッピングモールのレストラン、結構混んでるんすよ。で、下町の屋台ではサテー(インドネシア風焼き鳥)が一本15円くらい。5本食ってナシゴレンかミーゴレンつけてあっまいお茶(冷たい水は確実に当たるのでNG)飲んでも大体300円(購買力換算1200円程度)行きません。ナシゴレンだけなら150円くらいです。何だこの格差は。

今のインドネシアの大統領のジョコ・ウィドド氏は平民階層の出身なんでこのあたり何とかしてくれないか期待していますが、イスラム系の社会では見せかけの平等の裏に猛烈な経済格差を隠匿していることが多いのは他の国でもよくあることなので、初代大統領のスカルノみたいに社会主義的政策をある程度導入しないとダメなんじゃないかなあとも思うのですね。

RoyalMailのひどすぎるサービス水準

2月にamazon.fr(フランス)から書籍を取り寄せた。

急ぐものではなかったので送料は一番安いやつを選択した。そして、2/23に発送の連絡が来た。メールでは到着は3/9前後になるとのことだった。配送を担当するのはイギリスのRoyalmail。

ところが、3/9を過ぎても一向に届く気配がない。数日どころか一週間経っても全然届かないので郵便局に電話して調べてもらったが「全く分からない」とのこと。追跡番号がないからとのことだが、日本自体に着いていないのではという話だった(日本国内で宛先不正確などの理由で届かなかったものは一応DBで一定期間管理されるらしい)。

で、このRoyalmailについて調べてみたところ、遅着紛失は当たり前で、イギリス国内でも事故が頻繁に起こるから大事なものはDHLとかを使うのが当たり前だそうな(ほとんど英語だが、https://jp.trustpilot.com/review/www.royalmail.com でカスタマーレビューを読むことができる。ちなみに評価は10点満点中1.2点。つまりは最悪レベル)。確かに外国の郵便会社のサービス水準はお粗末きわまりないのは私も外国に住んでいた時の記憶で分からないではないが、それでも一応ただの手紙はそれなりにちゃんと届いたし、国際小包も多少の遅れがあるとしても届くのが普通だった。ところがこのRoyalmailはそれすらまともにできないというのだから、ヘタをすると品物紛失(つまりはどこかで誰かが掠め取る)で悪名高い中国の郵便よりもひどい。仕方ないので損害賠償請求をするかいねとRoyalmailのサイトを調べてみたら、あちこちとたらい回しリンクで混乱させられた挙げ句、「EU域外の物品については25営業日以内のクレームは一切受け付けない」とデカデカと書かれているではないか。つまりは5週間までの遅着はよくある話だガタガタ言うなというわけだ。この辺の尊大さはさすがの大英帝国様である。

というわけで4月になるまで待つか……と諦めていたのだが、驚くべきことに今日無事配達の運びとなった。2万円損しなくてよかったよ……と思う暇もなく包装に貼られていたシールはこれ。

f:id:sadaijin_nanigashi:20160319232658j:plain

いやー、確かに今日は雨降ってたけどさー、そんな丁寧に詫びなくていいですよ郵便局さん、と包装を見ると

f:id:sadaijin_nanigashi:20160319232715j:plain

!!

何でこうなったと思わずにはいられない包装のダメージである。明らかにかなり激しく水などをかぶった痕跡が見られる。上から見るとこんな感じ。

f:id:sadaijin_nanigashi:20160319232731j:plain

コンテナの隙間から雨漏りがあってそれが包装にかかったかなと考えられるのだけども、税関申告書に中身は本だと書いてあるにもかかわらずこの扱いはないだろう。

こりゃ配達時の物品破損のクレーム申し立てて交換してもらうのか、そうするとまたこの手の不毛なイライラを繰り返すのか……と思って包装をはがしたら、奇跡的にも中身の本にはほとんどダメージはなかった。背表紙に一部だけいわれれば分かるレベルの問題がある以外は、とりあえず難を逃れた格好だ。やれやれ。

正直、安物買いの何とやらというのを実感するほどのRoyalmailのサービス水準のひどさだった。次回Amazon.frから取り寄せを行う時にはちゃんとした配送業者を指定しようと思う。

それにしてもだ。Royalmailの評判の悪さにはちゃんと根拠があると分かったので、これをお読みの方も、Royalという尊大レベル極大な冠を乗せているくせにゴミみたいなサービス水準のRoyalmailは絶対に使わないことを、強く強くお勧めする次第です。

アルヴォ・ペルト『鏡の中の鏡』 (Spiegel im Spiegel)

f:id:sadaijin_nanigashi:20160314225012j:plain

先日購入したCDの1枚に、アルヴォ・ペルトの『鏡の中の鏡』が収録されているものがあった(Brilliant Classics盤)。

平均律クラヴィーア第一巻の最初の曲を思わせる単純で静謐なピアノのアルペジオの上に、これまた静かにヴァイオリンの単純で穏やかな旋律が流れてゆく。明るく、何もない、静かな部屋で時間の流れを自らの裡に感じているかのような、優しく、そして多くのものに別れを告げてゆくかのような余韻。

明かりを落とした部屋で聴きながら、色々なことを思い出す。いや、思うと言った方が適切だろう。それは、アドルノマーラー交響曲の響きの中に見出した、子供の頃の記憶のユートピア性とも通じ合うかのような、あのあらかじめ失われたものとしての幸福の記憶である。

私はなにかを眺めている。だが、それが何であるのかは思い出すことができない。けれども、それを眺めている私は欠けることのない満ち足りた、永遠に続くとすら思われる静寂の中に独りいる。

景色は少しずつ変わっているのだが、それが何であるのかは依然として分からない。しかし、私はそこに在ることで全てのものが美しく、時から逃れることによって得られるあの憂いのない浄福の中にまどろんでいる。

けれども、もうそこには戻ることはできない。いや、戻ることができないからこそ、それは記憶の淵源で揺曳し、美しいもの、宥和されたものの姿を朧ろに囁くのだと思う。さようなら、そして遠き時の終わりでまたいつか、と。