sadaijin_nanigashiの日記

虚無からの投壜通信

日々のあれやこれやをいろいろと。

実質的平等が来るのは数万年先だ

今回書く話は非常にドス黒いです。読み方によっては著しい反発を招くと思います。そういうのが嫌な方はブラウザバック推奨です。

 

Facebookで色々日頃の話をアップしていると、「いいね!」の付き方がコンテンツの内容によって差異があることが分かる。即ち、料理や食事の写真を記事にした物については女性からの「いいね!」がドカドカ付くのに対し、政治の話や社会問題の話になると女性からの「いいね!」あるいはコメントはほとんど付かない、ということである。女性の知人数名になんで「いいね!」等のリプライが付かないのかそれとなくヒアリングしたことがあるのだが、回答はいずれも「なんとなく興味がない」というものであった。

この手の無関心が女性差別によってもたらされた学習的無気力によるものなのか、私は知らない。だが、このようにして明確に現れる「いいね!」の付き方のジェンダーによる差異は、ともすると女性にはケーキとか旨い食い物だけ与えとけばいいんだろという歪んだ見方を固定、助長する根拠にもなりかねない。

勿論形式的な制度的改革を進めることで、このような構造的問題を解決する努力は必要だろうし、それがより望ましい社会のあり方の実現につながるだろうということは私も同意する。だが、Facebookでの「いいね!」の付き方がかくまでに動物的な水準に堕しているという女性ユーザーの動向を見る限り、女性の側からの能動的な行為による社会変容が実現し、実質的な平等がこの中世ジャップランドの社会に根付くのは数万年先だろうなあ、という諦念を抱かざるを得ない。

Journey Home

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こんな写真を上げました

先日、悲しくも呪われた東京五輪の開会式に先立って、ブルーインパルスの展示飛行が行なわれた。飛行ルートの比較的近くに住んでいる私は写真を撮ってFBに上げたのだが、そこには「Aw, great, here comes the thunderous applause.」というキャプションをつけておいた。これはAC5で展示飛行ミッションの際、自分たちの隊の展示飛行と副大統領のアジテーション演説に対して、バートレット(彼はこのミッションで戦死する)が「やだやだ、これで満場の拍手喝采となるんだぜ」と皮肉った台詞の英語版を引用したものだが、写真を見た大半の人はそんなキャプションの意味をおそらくは吟味もせずに「いいね」をつけていた。まあ、英語のキャプションだし、読む人も少なかったのかなとは思う。だが、Googleでこの台詞の検索をかければすぐに出典はわかるので、不明なことをすぐに調べる習慣のある人にとってみればその含意を理解するのはさして難しい話ではない。だが大半の人たちにとってはそうではなかったようだ。

つまりは、そういうことなのだろう。バートレットが嘆きつつ皮肉ったように、そして副大統領のアジテーション演説に対して市民達が反戦歌の大合唱で応えたというゲームでの展開が実現しないように、大衆は結局の所ジャンクフードのようなプロパガンダにコロッと乗せられ、浮かれてしまう程度の生き物なのだと思う。

 

そして、その夜の開会式では、ゲーム音楽のメドレーが使われたようだ。とは言っても比較的許諾の得やすい大手ゲームパブリッシャーから一括許諾を得て間に合わせたような代物だったらしく、法務部門での審査が厳しいので有名な任天堂や、古代祐三のように出版権も個人管理にしている独立系コンポーザーの曲は全く使われていない割には、極右で歴史改竄主義で少なくとも五輪憲章に謳われているような人権の擁護とは真逆の反動的発言ばかりしているクズのすぎやまこういちが作曲したドラクエの曲も使われていたようだ。これって世界的イベントでヴァーグナーの曲を使うくらいヤバいことなんだが、使った側は理解しているのか?

ヴァーグナーは彼自身がガチガチの反ユダヤ主義者だったことや、彼の作品がナチスのイベントで数多く使われたこともあり、今日では世界的なイベントではまず使われない。

だが、私の周りにいるゲーム好きの連中にとっては、そんなことはどうでも良いことだったらしい。サブカルの音楽が国家的イベントに使われたことに浮かれ、もう聴くのすらウンザリするような「感動した」という言葉を臆面もなく叫ぶ始末であった。サブカルがその成り立ちのうちにかつては持っていたはずの、主流なるものに対する明確な対抗心と反抗心は完全にうち捨てられ、「その口から吐き出される全ての言葉には毒がある」とニーチェが喝破した国家の大衆動員の手段に堕したことについても、彼らの殆どはむしろ喜びを以て迎える始末であった。私はそういう連中の文化に対する認識を吐き気を覚えつつ眺めることにしようと思う。

これ以上、もうこれらの人々の水準を期待するのは無理なのだろう。だから、私はもう微笑みつつ涙を流し、嘔吐するということをこれからの人生においても繰り返すしかないのだろう。

別れの作法

先日、会社に赴き、退職手続き一切を済ませ、完全に退職と相成った。まあ色々と面倒くさい手続きもあったが、所要時間としては1時間程度で、割とあっさり終わったと言えるだろう。そして近日中に新しい会社での勤務が始まる予定である。つい最近まであった、会社のWebサイトに掲出されていた私のプロフィルがあっさりと削除されているのを見ると、『1984年』における情報の管理と統制もこんな風にして行なわれるんだろうなあと想像せずにはいられない。

というわけでこれまでのプロセスとしては5月上旬に退職を宣言、引き継ぎを済ませてから6月に入ってからはずっと有休消化だったのだが、有給消化中も会社の連中からは業務の不明点などについて質問メールがバンバン来ており、その対応のために旅先でもそれなりに時間を取られた。挙げ句の果てには一旦受理されている休暇中であるにもかかわらず、上司からの要求でテレカンを1時間やらされるということまであった。これって労働法関連から見てかなりアレだと思うんですが、どうなの? そもそもこれは業務の標準化と担当の冗長化ができていないということ、そして引き継ぎのプロセスがまともにマネージできていないという意味で、マネジメントレイヤーの連中は自分たちが無能だと言っているのに等しいわけだが、そういうことについてはまあ馬耳東風を全力で決め込んでいるらしい。

まあそういうこともあり余りリフレッシュ感はないのだが、在宅勤務が続いているとは言え、勤務最終日にはさすがに上司や同僚からねぎらいの言葉の一つくらいはメールでもあるんじゃないかとは期待せず考えていた。それが去り行く者に対するある種の礼儀ではないかと私は考えるし、実際そうすることでその勤務先に対する悪評の流布を抑止することができるというメリットもあるからだ。メール一本なんだから、書いて送信するのには5分もかかるまい。だが、実際にはそれもなしのつぶてであった。つまるところ、彼らの人間性は、マネジメント能力同様、まあお察し下さいということなのだろう。

その他、こちらからの質問は全く答えないくせに情報ばかりねだるクズな同僚からは、勤務最終日に色々と雑用で忙しい中、「お疲れ様でした」もなく非常につまらない質問への回答をチャットで要求されたあげく、私の次の勤務先について前期ハイデガーの「好奇心」の概念よろしく、あれこれと詮索されたりした。そんな奴には絶対教えないよという人倫の基本が理解できていないのだとしたら、この同僚の人間的水準も推して知るべしだろう。魂のないテクノクラートの思い上がりの問題は、まさにマックス・ヴェーバーの指摘するとおりでもある。

そんな予想していた失望の中、私はある出来事を思い出す。数年前、非常に機転の利く、優秀な事務方の女性が半ばパワハラで急に退職を余儀なくされたとき、私は隠密に(パワハラした奴が社長のお気に入りだったので)同僚達から任意で寄付を募り、彼女の退職の餞を購入して賛同者全員の連名で贈ったことがあった。彼女はそれが非公然のことであったことに驚き、かつ感謝してくれた。おかげで彼女と私は今でもメールレベルで年に一度程度のやりとりがある。弔いの席で醜い争いが起きてしまい、以降そのトラブルを起こした人は周囲から疎遠にされてしまうというのはよくある話だが、退職のような別れに際しての人としてのあり方も、思わぬところでその人の倫理的な水準を露呈してしまうようだ。

もちろん、彼らの無礼に対して直接報復するは実はある程度可能ではあるのだが、それを行なうことは自らも同じ水準に身を落とすことになることは明らかだろう。従って、私はここにこのような人々がいて、そのような態度が人間の関係において蟠りを残すものであることだけを記述してきたいと思う。

「もっともよい復讐の方法は、自分まで同じような行為をしないことだ」(マルクス・アウレーリウス『自省録』)

何回目かもう分からないくらいの転職

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転職することにした。もう何回目か自分でも覚えてないくらいだ。履歴書を確認してようやく転職回数が分かるレベルだ。よくまあ社会から脱落せずに生きていられるなあと自分でも思う。とりあえずお給料もらって納税して生きてますんで、まだ落伍はしていないと思わせて下さい。

今の会社も勤怠はゆるい割には待遇はそんな悪くないので、概ね満足はしていた。だが自分の担当している領域が社内では蔑まれていたこと、凄まじいミスをしでかした偉い連中が全く責任を取らないことには怒りを通り越して笑いしか出てこなかったし、バックオフィス部門の人間がスタッフをいじめては追い出すということを繰り返しているのにコンプライアンス社内通報制度(内部告発窓口)が未だにないという古色蒼然ぶりにはほとほと愛想が尽きていた。また、去年の暮れくらいから色々と面倒くさい問題も頻出してくるようになり、海外ブランチで仲の良かった同僚もポジション異動でいなくなってしまうので、いいオファーがあれば辞めちゃおうかなあとはかなりの真剣レベルで思うようになっていた。時折思い出したように案件を紹介してくる転職エージェントにもそれなりに真面目に返事をするようになっていた(だが●ンスタッド、お前らのクズぶりは忘れん)。

そんな中、3月下旬にとある会社からお話を頂き、面接やら試験やらを何回か受けて内定を頂戴するに到った。正直テストは実際の紙でやらないと馬力が出ないというオッサン世代の人間なのだが、まあ何とかなったのは喜ぶべきことだろう。少なくとも形の上ではキャリアアップになるし、給与面もそんな悪くないため、多分応諾して転職することになると考えている。

残念なのは、転職の間の有休消化期間で海外旅行に行けないことだ。これはまあ仕方ないので、来年以降に延期することにしようと思う。24時間外国語で思考し、会話する環境に定期的に身を置かないと精神的にかなり辛いし、昨今の精神的不調はそういう問題に由来するところも少なくないと自分では認識しているのだが、こればっかりは環境的問題なので諦めざるを得ない。国内で適当にどこかにフラフラと行こう。

新しい転職先では、現職の会社の連中とも恐らく接点があるはずだ。その時には今の上司に当たる連中を少しばかり驚かせてやろうかとも思う。余りにも腹黒く陳腐な話だが、私の尊厳を軽んじた連中にはそれ相当の報いを受けさせることはそれほど悪いことではあるまい。

シン・エヴァンゲリオン劇場版観てきたわけですけども

シン・エヴァンゲリオン劇場版を先日観てきたわけです。パンフ売り切れでしたんでネットで注文してそろそろ届く予定です。細かい内容のおさらいはこのパンフと、恐らく半年後くらいに発売されるBDかな。BDは多分序破Qも最終ディレクターズカット版みたいな感じでリファインされてBOXで発売されると読んでますので、それを狙うのも一つの手かなとは思います。

いわゆる「新劇」については『破』あたりから一応劇場で観てるし、もちろんその前の旧劇やTV版もほぼリアルタイムで追ってきた側のおっさんである自分な訳ですが、ああ、ようやく終わったし、こりゃ続編が作られることはもうないだろうなあという感想を素直に持ちました。最初のTV版から起算するとほぼ四半世紀ですよ。実質的に続編とか存在しない状態でよくまあこんな長いこと一つのコンテンツが続いたなあと思います。旧劇と新劇との間にはコミック版の完結とかもありましたんで、一応話題自体は途切れなかったわけですが、例えば続編がガシガシ作られて作品世界が拡大していった機動戦士ガンダム宇宙戦艦ヤマトなんかと比べると全然違いますね。

で、この四半世紀を振り返りつつ旧劇の人類補完計画発動場面で流れていた「Komm, süsser Tod 」をヘロヘロと聴いているんですが、やっぱいい曲ですね、この曲。イントロ部分がプロコル・ハルムの「青い影」、コード進行はパッヘルベルのカノン(いわゆるカノンコード)を中心にして組んであり、後半はビートルズの「ヘイ・ジュード」を混ぜ込むというコラージュが高い水準で行なわれているという点で鷺巣詩郎ってやっぱ天才だよと感嘆する次第です。

で、思い出すのは、旧劇含めた旧作は主人公の猛烈な自己肯定感の低さと、そのようなゆがみを生むなら他者なんか要らねえから人類滅べ、という社会に対する猛烈な呪詛が作品の後半に到るとガンガン加速していったという思い出です。実際日本の若者の自己肯定感は他国と比較しても非常に低い水準にあることは各種調査からも明らかなのですが(例えばhttps://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h26gaiyou/tokushu.htmlを参照のこと)、これは他者を肯定し受容することが希薄だという日本の文化的・社会的構造に由来すると言われており、旧作はこれに加えてバブルは崩壊するしオウム真理教はテロをやるし山一証券は倒産するし阪神淡路大震災は起こるしというどこにも明るい材料がないという当時の状況を背景に作られた訳です。そういうコンテキストと呼応する形で、他者と世界の破棄を願う意識というのはこの作品を受容した人々にとっては実際リアリティのあるものだったし、それこそシンクロするものだったと考えられるのです。そういう意味で旧作は特に「ロスジェネ」と言われる人々が尊厳を要求する絶叫にも似た話だったし、世界が滅ぶ場面で流れる「Komm, süsser Tod 」は変ロ長調で書かれているにもかかわらず歌詞の内容は「自分もダメ人間だし、みんな死んで世界なんか滅べ」というドス黒いものであり、これは社会の表層的事象が「明るく楽しい社会に向かおうぜ」というポジティブシンキングなメッセージを思考ゼロで繰り返しているのにその実社会が個人にもたらす絶望的状況は何も解決しないというその当時の現実と見事に呼応していたわけです。1994年にリリースされた電気グルーヴのヒット曲「N.O.」でも「話す言葉はとってもポジティブ 思う脳ミソ ホントはネガティブ」とか罵る歌詞が出てきますが、旧作に呼応した人たちは程度の差こそあれど大体そんな意識を持ってたと言えるのではないでしょうか。

ところが時代は過ぎ、右を向いても左を向いてもネットワークとかコミュニケーションとかそんな感じの言葉が壊れた水道管のように流れてますし、SNSを覗けば「私ってステキでしょ」的日常充実ぶりを自慢するセルフコンテンツが横溢する現状が展開されているのが2000年代も結構すぎた段階での実情です。他者との関わりによって自己肯定感を醸成するような社会的環境は未だこの中世ジャップランドでは希薄なわけですが、その代替手段としてSNSなどでは全ての具体的コンテキストを無視して自己肯定のポストを垂れ流すことで、目も耳もふさいで自己肯定のぬるま湯に浸かることが可能です。脳味噌に一発キメているみたいに自己肯定のコンテンツをまき散らして、「イイネ」を沢山もらえば形式的であるにせよ自己愛の欲求は充足させることができるぜバンザーイということが、比較的手軽な方法として提供されてるのです。おまけにSNSは嫌いな奴に関してはブロックすることができますから、自己愛の充足にとって邪魔になるやつは視野から追放できるし、結果として認識的には抹殺することができます。これって他者の抹殺を願っていた旧作の主人公からすれば実に羨ましいことで、他者を抹殺しつつ自己肯定のお城を築くことがとりあえず可能なのが今日の状況だったりするのです。

多分、新劇、特に最終作はそういう現状に嘔吐を感じつつシナリオをある程度当初のプロットからは変更させつつ作成されたのではないかと私は感じました。即ち、自分を愛するとかそんな話は自己への執着があるが故に生じたある種の虚妄なんだから、そんなものを捨てるためにも、まあゆるく社会の色んな人とつながった方がいいんじゃないの?というのがこの作品が最後にたどり着いた視点だったのではないかなあとも言えるのです。だから主人公が最後にいた場所は外部への接続の象徴である海であったり、(日本では)都市のゲートウェイでもある駅だったのかなと。そして、年を取ることがないという「エヴァの呪い」とは、こういう自己の問題に拘泥する余り外の世界に対しての眼差しを閉ざし、精神的に成熟することのない我々の状況を半分くらい揶揄するような形で形象化したものなのだろうとも考えるのです。

それなりに年を食った私のような人間にとっては、このような帰結となった新劇の最後はは実際腹オチする結末ではあったりします。自己というのは獲得されるものであると同時に、破棄されるべきものだからです。でもそれが分かるには色々と苦労や悲しみや絶望の山脈を越えてくる必要があるわけで、やはり自己肯定感の低さに呻吟しているであろうこの時代の若い人たちには、旧作のような問題提起のアプローチは、似たような問題を抱えて社会への呪詛を抱く人は数多いということを知らしめるという意味において、ある種の救いになるのではないかなあとも今でも少し思います。

というわけで、エヴァが完結した今だからこそ、「Komm, süsser Tod 」を聴きながら、人類なんか滅んじまえこの畜生!と絶叫するのも、たまにはいいんじゃないかなと、厨二病をこじらせた中年で独身のおっさんである私は思ったりしました。

教養が持つもの

社畜生活を送るようになって長い時間が過ぎた。気がつけば自分のこのくだらない人生ももう後半戦に入りつつある。消費生活にうつつを抜かすのではなく、老後に向けてチマチマと蓄えをしなければ悲惨な日常を送るかさもなくばソイレント・グリーンのように田園を聴きながら安楽死を選ぶかのどちらかになるだろう。

社畜生活を送るということは、時間を切り売りして自分の自由を捨てるということを意味する。有難いことに生きるのに困るほどのワーキングプアには陥っていないが、それでも一日の終わりには疲れ果てて本も読まず寝てしまうことが殆どだ。元々その傾向があった抑鬱的なものが悪化して、ルーチンをこなした後には何もエネルギーが残らないというのが正直なところなのだが。

もちろんそれは言い訳なのだが、それにしても本を読んだりする時間が取れなくなっている。読んでも最近は老眼のせいでそれほど量をこなせなくなっている。本を買う金は一応あるのに、このザマだ。学生の頃は金はなかったが時間だけはそれなりにあった。

そのせいか、文章などの形でアウトプットするものが質・量共に低下している。学生の頃は5000字程度の文章は2-3日程度でかっちり書けたものだが、最近では仕事でもない限りそういうまとまった量の文章を書くだけの精神的余力がない。

恐らく、これは本を読まなくなっていことに起因する教養のエネルギー的低下によるところも大きいのだろうと思う。平たく言えばどんどん自分は愚かになっているということだ。

時の流れに身を任せ、より愚かになっていくことももちろん可能だし、そうなったところで誰かに迷惑をかけるものではないだろう。だが、文章をこうしてしたためること自体が自分自身にとってある種の救いであり、心を鎮めるために不可欠の営みの1つであることを考えると、もう少し自らに教養をたたき込むだけの努力をしないといけないのだろうとは思う。

人生は、余りにも短い。

浜辺に残ったわずかな足跡とその記憶

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篠原美也子のこのテキストでは、2つのテキストについて言及されている。「言葉の力を取り戻せ」と「敗者であることは勝者であることより難しく」の2つである。

恐らくこの記事を読んでいる人は気づくと思うが、この2つのテキストの筆者は私である。いずれも20年くらい前に書いたものである。それからどれほどの月日が質的にも量的にも経ったのかを思い返すだけで頭を抱えたくなる。

そんな私ももう50を目前にした中年のしがないおっさんに成り果て、つまらない仕事で口に糊する日々を続けている。若い頃に夢見た自分にはついぞなれなかったし、今の自分の希望を満たす日々にももちろん到っていない。早い話がそこら辺にいる敗残兵&人生を惰性で生きるだけのつまらない存在に過ぎない。

でも、こうして40%くらいは若さ故の暴走で書いたようなテキスト(それを書き、公開したこと自体は後悔していないけどね)が、篠原美也子本人に厳しく届き、今でもその立ち位置を見つめ返すときの1つの躓きの石となっているとしたら、これほど嬉しいことはないと思うのだ。

私の人生は恐らく砂浜に残った足跡のように、多くの人には顧みられることもなくいずれは消えてゆく。だが、それでも、たった一人であっても、私の言葉が人の心に届いたのであれば、この束の間の人生も一応の意味はあったのかなと安堵するのである。

ずいぶんと間が開いてしまいました

日々に流されていたら、ずいぶんと間が開いてしまいました。

勿論各種SNSではそれなりの生存報告を日々しているのですが、ブログという形でまとまった量の文章を書くのはたんとご無沙汰していました。いけませんね。

ちなみに前回の更新からは取り立てて大きな出来事もなく、相も変わらずさして楽しいわけでもない日々が重く流れているだけなのですが、とりあえず自分が壊れない程度に生きていられるというのは、素直に皆さんのおかげだなあと思える程度には心が少しずつ回復しているようです。この辺のことはまた回を改めて書くことにしましょう。

情報を価値にするのは、まだまだ人間の領域です。

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SNSでは書きましたが、先週、報道機関向けに説明会をやりました。それと同日、@Pressなどを使ってプレスリリースを配信しました。
ここまではよくある話ですが、実はプレスリリースに書いた情報は、報道機関向け説明会に来て初めて補完されるように仕立てました。つまり、報道機関向け説明会に実際に来た記者が書いた記事と、プレスリリースだけを元にして書いた記事では質的にはっきりとした差が現れるような仕掛けを仕込んでおいたのです。
案の定ですが、その差は明確に現れました。プレスリリース丸写しが大半のWebニュースサイトでは非常に中途半端な内容になった一方、きちんと記者が来たケースでは紙メディア・Webメディアを問わずちゃんと内容の全体を捉えた記事になっていました。
質を高めるためのあり方には、こういう日頃の行動にもヒントがあるはずです。こういう時代だからこそ、きちんと人を使って情報を足で稼ぐ。記事をちゃんとチェックするために校閲査読部門を置く。そうした当たり前のことができていないWebメディアは、残念ながら最終的には嘲笑の対象になるでしょう。

大手町フィナンシャルシティでの出来事

大手町駅構内で大手町フィナンシャルシティ内ビジネスライブラリーの会員証を拾得。電話したところ持って来いとのことだったので5分ほど歩いて届けた。でもお礼とかはナシ。無論お礼欲しさで届けるわけではないけど、もっと臨機応変な対応があるんではないかと思った。

以前空港の待合ロビーでスマホ拾ってゲートが閉じたばかりの飛行機の搭乗口にに届けたら、カウンターの人が即席で(気圧変化対応用の)飴玉を見繕ってこさえた袋詰め+「ありがとうございます、良い旅を」との手書きのメッセージカードをくれたことがあった。作業時間は2分くらいだろうし、コストも全然かかっていないけれども、こういうのをもらうと人助けをして良かったなと思えるものだ。私のような凡俗の徒はそういう現金な経験でもなければ自ら人格の陶冶などしないものだ。

そして思うのだが、こういうことが咄嗟にできるかどうかというのは、個別のマニュアルの整備とかではなく、自らの組織がどこを向いて仕事をしてるのかについてを意識化してその外部へとまなざしを向けられるか否かという、すぐれて当たり前の人間的なあり方に伴うものなのではないだろうか。そういう意味においても、自らも会社の人間である以前に、一人の人間であることを意識しないとなあと反省を新たにしたのでした。